作日は何とか午後に休みを得てでも、辛抱し外出を自粛。つまりはサイクリングも断念。庭先の͡コナラをマニュアルフォーカスレンズで撮影した。 サイクリングに出かられない。そうすると思いふけることもある。思い出す言葉がある。
花は愛惜にちり草は棄嫌におふるのみなり。
正法眼蔵の冒頭部分にある言葉です。
正法眼蔵は道元の著書。道元は鎌倉時代の禅僧、曹洞禅の開祖です。
人にはもともと仏性が備わっているのに、何故、修行するのかと、疑問をいだき、国内では解決しません。そこで中国にわたり如淨のもとで修業し悟りを得て帰国します。
正法眼蔵を最初から読んでみると
諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、̪死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道、もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごときなりといへども、花は愛惜にちり草は棄嫌におふるのみなり。
正法眼蔵より
とあります。
欲があって苦しんだり、自分さえよければと思って他を顧みなかったり、一人だけ変わってもどうしようもない、と思ったり。
いろいろとあるだろうけれども、よくよく思うと、感じることがあって、それって違う。そこを解れというのは困難かもしれません。
でも実際に仏となる人々はいます。これは事実です。
事実だとはいえ、人はどうしようもないと思うかもしれません。
私、道元に耳を貸してください。空という考えをご存じでしょうか。知らなくても良いのです。感じることができればよいのです。耳を貸してもらうだけでも、思うだけでも良いでしょう。修行をしていただいても良いのです。
そうなのですけれど、やはり人は花が散るのを惜しむし、生い茂る草に嫌気をさすものなのです。というような意味でしょうか。
正法眼蔵の冒頭にあることからしても、道元の宣言であるように思い、同時に道元の底知れない優しさを感じます。新型コロナウイルスの終息を願うばかりです。
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