保存樹の下にロードバイクを停めた物臭な私。

保存樹の下にロードバイクを停めた物臭な私。

保存樹の下にロードバイクを停めた物臭な私。

 朝のうちに用を済ませ、午後にはサイクリングに出ようと思ったが、結局、夕方近くになってロードバイクをこぎ出した。
 いつもよく通る保存樹の下までやってきた。プレートには足立区保存樹木No.48「すだじい」とある。

 などと、書いていると行動的な一日のようで、実は、昼過ぎから、風がよく通って気持ちが良いので、昼寝をしてしまった。これは物臭写真なのだ。

 それだからか、阿部次郎著 『合本三太郎の日記』 角川選書1のページを繰ってみた。

 

 

 きっと、30年ぶりくらいに真剣に読んでると思う。明治・大正の頃のもので、何だか難しく書いてあるのだ。

言ってみれば熟し切った柿、木から落っこちる寸前の柿のような、ほっておけば役にもたたないのかもしれない、思想の遊戯みたいなところがある。

 けれども捨てずに書棚に並んだままだ。とすると、私にとっては大切なのかと思う。開いてみると赤線が引いてある。

 

価値ある情調をもってこそ知識も、思想も、ないし情緒そのものも始めて身にしみる経験となる。

加うるに死は生の自然の継続である。最もよき生の後に最も悪き死が来る理由がない。死と仕事とは人知の測りしるべからざるところであるが、ただ死に対する最良の準備が最もよく生きることにあるは疑いがない。

自覚の価値と真実とを立証するものは自身にあらずして内容である。力に満ちた内容である。

余は他人と区別するための独創を求めずして、ただ生活の中核に徹するの真実を求める。余は先人および今人と一致することを恥じずしてむしろ内的必然を離れたる珍説を恥とする。
  (阿部次郎著 『合本三太郎の日記』 角川選書1より)

 心と言おうか精神と言おうか、目の前のことや経験したことを納得させたい。別にそんなことどうでもいいと思っているときもある。

 なにそれ、はっきりしろとの声も聞こえるけれど。毎日の生活は、どちらも含み、張り詰めるときも、だらだらのときもある。

 そうではあるが、何かのきっかけで一本の幹を見つけたいと思うのだ。

 

   (今日の写真データ)
   (Nikon Df Voigtländer58mm 1:1.4 ; F2 1/1000 ISO100)

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