写真は先日軽いメンテナンスをした後に撮ったラレーCRFです。もっと絞り込んだら大事にしている自転車が伝わったかな。
でも、ラレーの母国のユニオン・ジャックにピントが合って周りはぼやけて、これもロードバイクに乗ったりいじったりの夢見心地な、私の心象風景かもなと思った。きっとそうだ。
いつもの書店
ところで、いつも良く行く書店があって、そこは西新井のイオンモールにあるくまざわ書店なのだが、この書店には書評コーナーがあって紹介された本が並べてあったり、岩波文庫とかちくま学芸文庫が割と揃えてあって重宝している。
よくここで本を買う。
でもたまに、ふらっと他の書店にいることもある。普段は目にとまらない本に気づいたりすることがある。場所の違いなのか陳列のなせる業なのかはっきりとはしないが、とにかく昨日の夕方に、住吉雅美著 『あぶない法哲学ー常識に盾突く思考のレッスン』 (講談社現代新書が目に入った。
あぶない法哲学
住吉雅美著 『あぶない法哲学ー常識に盾突く思考のレッスン』 (講談社現代新書)、店頭で開いた。その冒頭には
勉強したくない。働きたくない。結婚したくない。子育てしたくない。だけど楽しく暮らしたい。
物心ついたときからそう思っていた私は、いま思えば身の程知らずもいいとこだが、本当は女優になりたかった。
法律は所詮、世界を回す諸システムの中の一つでしかないと考えている。
このように法律を相対化することで、法律には託しえない人間の様々な<生きる力>に目覚めていきたいのだ。
決まり事に従うのではなく、自分自身の頭で考えることで、私たちはより自由になる。
(住吉雅美著 『あぶない法哲学ー常識に盾突く思考のレッスン』 (講談社現代新書) P3〜7より)
ここで思わず笑ってしまって、買い込んだ。そして一気呵成に読んでしまった。
法律で禁止されていること、法律で認める権利や請求は,果たして素直に従っていいのか。違うならば、従うならば、その根拠はなんなのだ、考えろと、著者住吉雅美氏はいうわけである。
この本には結論は書かれていない。
問題を出して、これに対する法哲学という学問の立場から、解釈をしているだけだ。著者が法哲学者としての学説を論じて、問題解決をしているわけでもない。ただ、一カ所だけ著者住吉雅美氏が、私はこちらの考えだ、と、述べているところがある。
「私の体は私そのものである」こと、言い換えれば「私の体のかけがえのなさ」表現するためには、「所有する」という概念はあまりに限定的であるという批判もある。
しかし私は、「自己による自己の身体の完全支配」イコール「他人からの介入の排除」という法学的意味を強調するという点で、「所有」という概念に依拠したいと思う。
(住吉雅美著 『あぶない法哲学ー常識に盾突く思考のレッスン』 (講談社現代新書) P179より)
冒頭の、住吉雅美氏のいってみれば自由な立言からすれば、納得のできる選択のように思った。他人がどう思うとも、自己の責任において他者の介入は排除したいと、言ってると思うので。
所有といっても何を所有するかも大事だが、誰が所有するかも大事である。私が所有している。けど、その私とは、何ものなのか。人がずううっと考えてきたこと。精神的個体として私の私有物が私の体との考えのようだ。だからなんだと言うわけではないけれども、所有と、誰が所有するのかの、問いは永遠かもしれない。
みんな考えて、考えないまでも気づいているから、小説読んだり哲学したり、趣味や仕事に打ち込んで自己を見つめるのかなと思う。
- (今日の写真データ)
- (Nikon Df Voigtländer58mm 1:1.4 ; F1.4 1/160 ISO1600)
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