緊急事態宣言が解除され、私の最初の休日だから、ロードバイクの出番となるだろう。残念なことに、所用があり、サイクリングに出ることができない。代わりに、小一時間くらいラレーCRFでふらふらした。
目新しい風景との出会いはないだろう。とはいえカメラをフロントバッグに突っ込んでふらりと出た。
見慣れている近くの大樹の下まできたとき、カメラを取り出した。この大樹はもともとあって、その木を残しながら集合住宅が建築されたものだろう。ここに何時からと、考えたりしてカメラをむける。そうすると「六祖壇経」にある次の偈を思い出した。立っている木が歌うなんて、ないけれど、私が勝手に妄想して、「本来無一物」と思い出したのかもしれない。
神秀の偈
身は是れ菩提樹、心は明境の台のごとし。
時時に勤めて払拭して、塵埃に染さしむること莫れ。
(身は悟りの樹、心は澄んだ鏡の台。
いつもきれいに磨きあげ、塵や埃を着かせまい。)
慧能の偈
菩提は本より樹無し、明境も亦た台に非ず。
本来無一物、何れの処にか塵埃有らん。
(悟りにはもともと樹はない、澄んだ鏡も台ではない。
本来からりとして何もないのだ、どこに塵や埃があろうか。)
神秀
身是菩提樹 心如明鏡台
時時勤払拭 莫使染塵挨
慧能
菩提本無樹 明鏡亦非台
本来無一物 何処有塵埃(中川孝訳注 「六祖壇経」 たちばな出版 P41〜56より)
「六祖壇経」は、禅の初めとされる達磨から、その法を六番目に引き継いだ慧能の語録である。唐の時代に成立している。兄弟子である神秀の偈がまずあって、慧能が答えた。批判したのかもしれない。
このときに師である弘忍が慧能を後継と決めたとされる。神秀と慧能の二人が関係している。二人の意見があって、何かを表現している。
二人の意見で、二人の対話で、表に浮き出てくることに、正しいことや真理とがあって、順々に考えて説明をする流れとは違う世界がある。
相手に応じて、違うと言ったり、別のことを言ったりして、わかってもらっている。また、わからせるのでなく、わかってもらう。上の偈は私には未だによくわからないけれども、雰囲気はつかめているだろうか。
今日のところはわかったつもりでいようかな。コロナ渦で言い出されたソーシャルディスタンスや人との接触を避けるのは、こんな姿勢と対立している。
全てを論理で解決しない東洋のなかの日本で、新型コロナウイルスの急激な感染拡大だけは抑えたことに意味がないのか有るのか。口から泡を飛ばして議論をするのではない文化のありようが、大切かなと思ったりしている。
(今日の写真データ)
(Nikon Df Voigtländer58mm 1:1.4 ; F2 1/400 ISO200)
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