読み始めてみるとロードバイクとのつながりを感じてしまう。
今日も暑く、しかも午後は雨の予報で、安全も考えてインドアでのお休み、そして佳人のコンタクトレンズの調整に付き合いとなる。
先日から30年ぶりの再読をしている『チャイコフスキー・コンクール―ピアニストが聴く現代 』を読む。どうして久々に書棚から取り出し、手に取ったかといえば、読み終えて感じたのだが、ヨーロッパ発祥のロードバイクともつながりがあるように思えたからで、なんともあいまいな理由による。
コンサートホールでのクラシック音楽もロードバイクでのロードレースも同じ頃の起こりであり、どちらもヨーロッパの伝統の中で、音楽の世界でも自転車の世界でも、一方では形式を守り一方では変化しながら、現代に続くといった感じなのだ。
概要と背景
『チャイコフスキー・コンクール―ピアニストが聴く現代 』は、1986年の第8回チャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門の審査の後に、中村紘子氏が書き始めたノンフィクションである。
チャイコフスキーコンクールの審査についてのルポルタージュの形をとりながら、コンセルヴァトワール、コンクールとは何か、クラシック音楽の大衆化、を軸とするノンフィクションであり、一種の文化論とも言える。
著者の中村紘子氏は、1965年のショパン国際ピアノコンクールで、日本人として2人目の入賞者となったピアニスト。
チャイコフスキー国際コンクールは、ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーに因んで名付けられ、1958年より4年おきにモスクワで開催されるクラシック音楽のコンクール。エリザベート王妃国際音楽コンクール、ショパン国際ピアノコンクールと並ぶ、世界三大コンクールの一つとされ、最も権威のあるコンクールのひとつである。
コンセルヴァトワール、コンクール、クラシック音楽の大衆化
西欧諸国のコンセルヴァトワール
著者中村紘子氏によれば、西欧諸国の教育の基本理念には、音楽に限らず、伝統ある基本を徹底的に学ばせて身につけさせることが基礎であり、改革や新しい見解はその基礎があってこそ開花するという信念がある。
これをコンセルヴァトワールと呼び、保守的というイメージとは違って、変わることを忌み嫌いはしない。クラシック音楽のような修練に時間とエネルギーが必要だとなると、その信念はより強くなる。
このコンセルヴァトワールはコンクールでの審査基準ともなる。
今よく耳にしているピアノ曲は、このコンセルヴァトワールの線に乗りながら、また同時にピアノという楽器の完成とも一つになってくる。
コンクール
第二次世界大戦までは、クラシック音楽の奏者と指揮者はどのように生まれたかといえば、それまで巨匠と仰がれた大家のピンチヒッターとしてデビューしていたそうだ。
クラシック音楽の大衆化とも関連するが、次の時代のスターの誕生をこのような偶然性に頼らずに、見いだそうとしたのがコンクールらしい。
その代表として、本書の冒頭に、第1回チャイコフスキーコンクールで優勝したヴァン・クライバーンが出てくる。1回目だから当時のソヴィエト連邦としてはロシア人の優勝を試みたのだろうが、優勝者は敵対国のアメリカ人であった。そういうこともあってなのか、ヴァン・クライバーンは一気にスターになった。
クラシック音楽の大衆化
現代のようにホールでクラシック音楽が演奏されるの19世紀の後半とのことで、さらに、一般人にも親しまれるようになるのは第二次世界大戦後という事らしい。
日本が敗戦から立ち直りながら、サントリーホールなどの文化施設が競いあって成長し、西欧のクラシック音楽の大衆化を追いかけた。
このとき、スターがいないと、ホールでの演奏で、聴衆がいないとなると、収益がないことにはなり成り立たず、どうしても人寄せパンダのような才能が必要となる。こう書いてしまうと、コンサートピアニストの必須の条件が美男・美女となるのだが、クラシック音楽となれば、コンセルヴァトワールの基準もあって基本的な技術に加えて、人を感動させるあるものが必要となる。
この、収益性と、ある感動が、大衆化と思われる。容姿については中村紘子氏がそうであるように不要とは言っていない。ご本人の自覚もあるかもしれない。
『チャイコフスキーコンクール』のまとめ
クラシック音楽は伝統的なその技の基準を備えた奏者によって、また基準をよくわきまえた先生により、支えられる。同時に、というか、現代では聴衆と演奏会の主催者がいて始めて可能で、何より優先されるかもしれない。
また、コンクールは必要なのだが、そのコンクールの在り方に中村紘子氏には少し疑問があるようである。
クラシック音楽の殊に日本において、完璧な学習も必要であるが、意味を理解し血肉となった音楽の解釈を求められている。
コンセルヴァトワールを日本人が理解し、クラシック音楽が真に世界のものとなるように願っておられるようである。
読後感
クラシック音楽が、いま耳にし、誰でも聞けるようになったのは、19世紀の後半のようであるし、もっと気軽に聞けるのは第2次世界大戦の後。性差別や人種差別がなくってくるのは、20世紀も末になってこと。
だれでも接していけるクラシック音楽だけれどもコンセルヴァトワールで、ともすると教養主義的になってしまって、かしこまって聞かなきゃ、となる。
それでも、バッハやモーツァルト、ベートーベン、ショパン、リストなどのピアノ曲、オーケストラは、聞いていて楽しく、時には涙も流れる。こんな素晴らしいものを、いつでも聞ける、幸せなことである。
背景にはしきたりもあるし、規則もある。ヨーロッパで起こった事を日本人が理解できるかとの思いも確かにあるけれど、それでも素直に楽しめると思う。
クラシック音楽におけるコンセルヴァトワールと同じものを、もしかしたらロードバイクにもあるのかなと思う。自転車はヨーロッパで起こり、発展し、20世紀初頭にはロードレースが始まり、その伝統の中でロードバイクが文化となっている。
そのロードバイクをいま楽しんでいる、ロードレースではないが、自分のなかの一つの文化なのだと思う。
クラシック音楽もロードバイクも私の文化だと思う。そして、この文化がないと人は生きていけない。
ロードバイクも文化かな
(今日の写真データ)
(Nikon Df Voigtländer58mm 1:1.4 ; F8 1/100 ISO12800)
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