積ん読再読、ロードバイクを飾って眺める
積ん読とか再読とかいうけれど、どちらも、意味あると思う。再読には毎年読んだり、常に手元に置いて読んだり、そして今回、25年くらいの間を置いて
脇田晴子著『日本中世都市論』東京大学出版会
を再読をしようかと思う。
書棚を眺めると、この本また読もうか、いつ買った、古本で見つけて小躍りした、読んだら今までぼんやりしてたものが判然とするかなとか、心の中で繰り返す。繰り返すのが良いのかと思う。生来、ぼんやりとして生きているから、何事も何遍も繰り返さないと、覚えられないし、しっかりと理解もできない。
何度もみてるうちに、はっきりしてきて、その後の情景も浮かんできたりする。
ロードバイクも眺めているだけでも、喜んでられるけれど、もしかしたら根っこは同じかしら。
日本中世都市論
その日本中世都市論であるが
今でも入手でき、学術書のようで、なんでこんなのを買って読んだのだろう。しかも大事に書棚に並べてある。
読了したときの爽快な感じだけを実は覚えている。内容は、ここで評価を書けるほどには覚えていない。中世とか都市とかそんなことの一連の興味の中で読んだと覚えている。
都市とは、権力から身を守り、あらゆる災難を弾き飛ばす様な、最近のことでいえば新型コロナの蔓延を何とかしようといった、自治の事だと思う。自治ということでいえば、都市でなくとも良くて、農村でも、漁村でも、港町でもよく、なにも人が多く集まるから都市ということでもない。
領域がはっきりとして、自治の範囲とそのいわれがはっきりとしているからこそ、都市といって特別な扱いを受ける。漫然と広がっている集住では無く、自治を勝ち取ってきた誇りがあるのが、都市の民だと思う。
人が生きていく力を確かめたい、こんな思いから読んだ記憶がある。
『七人の侍』という黒澤映画があるけれど、あの中で描かれる農民の姿は嘘だと思っていて、そのことを理解したくて読んだはずだ。
民は強靱だと思う。私も強靱のはずだし、隣人も強いはずだ。
それを証拠に、新型コロナの中でも暴動や略奪な無いよね。
ところが『七人の侍』の中では侍だけが強く、農民はただただ小さくなってる。
嘘だ。
『中世都市論』を読んだ後の爽快感はこのことだと思う。
大事に並べた書棚から取り出して、全部をあたらためて読んでいないが、つらつらと思い出す。
ロードバイクを眺めて幸せだ思う
本と同じように、ロードバイクを部屋の中に飾るローディーも、すぐに目につくところに置く方も、何度も何度もみてると、失策や感激を思い出し、次はこうしようああしようと、思うだろう。書棚の本と同じようなことか思う。
どちらも知的な興奮を求めていないでしょうか。
眺めながら、メンテを思い出し、何やかやと、人にもいいたくなってくる。
こんなにロードバイクを愛でてますと。
でも、これって、アマチュアの幸せだと思う。
プロならばロードレースで勝たねばならない。ロードバイクをこんなにメンテして愛してる、なんていっても意味は無く、結果が全て。仕事は結果だ、と同じ。努力をしましたが、、、、と、顧客には言えない。良い結果を出してこそ仕事だから。
アマチュアはこんなに努力してます、ってのが大事だし、本人のためにも意味がある。
雨だったり、とんでもなく暑かったりして、ロードバイクに乗れなくとも、眺めているだけで幸せになる。そこから今度の走りを想像したり、改善のために次はどうしたら良いかなとか、言ったり、想像したり、調べることもできる。
アマチュアだから言える。
本でもロードバイクでも、目の前にあるからこそ出てきてしまう知的な興奮がそうさせるのだと思う。
(今日の写真データ)
(Nikon Df Voigtländer58mm 1:1.4 ; F2 1/200 ISO200)
中世の歌人、藤原定家についてはこちらもどうぞ
コメント